第二章 産業・交通通信 第二〇節 日野川の架橋290-293
新修 江府町史
第二章 産業・交通通信 第二〇節 日野川の架橋 町内の架橋 江府町は日南町多里地方に源流をもつ急流の日野川をはじめ、その支流は大山系の浸食され易い地層を流出する河川が多いので、それを渡す橋はたびたびの流失で住民の負担は大きかった。 国道、主要地方道の橋は昭和三〇年代の早くから安全な永久橋となったが、町道の永久橋架け替えは昭和四〇年(一九六五)に入ってからである。 特に幅一〇〇メートルに近い
Language
第二章 産業・交通通信 第二〇節 日野川の架橋290-293
第二章 産業・交通通信 第二〇節 日野川の架橋 町内の架橋 江府町は日南町多里地方に源流をもつ急流の日野川をはじめ、その支流は大山系の浸食され易い地層を流出する河川が多いので、それを渡す橋はたびたびの流失で住民の負担は大きかった。 国道、主要地方道の橋は昭和三〇年代の早くから安全な永久橋となったが、町道の永久橋架け替えは昭和四〇年(一九六五)に入ってからである。 特に幅一〇〇メートルに近い
第二章 産業・交通通信 第二一節 日野川本支流の治水294-296
第二章 産業・交通通信 第二一節 日野川本支流の治水 日野川流域護岸 古くから洪水によりたびたび流路を変更して、被害をもたらしてきた日野川流域の整備は、国道の改良により、町内右岸は早くから護岸がつくられていたが、左岸の整備対策は昭和五〇年代になってからである。 昭和五一年(一九七六)には来町の建設省河川局長に、これまで単県で少しずつ進められてきた洲河崎護岸の建設促進(平成三年度完成)と、白住
第二章 産業・交通通信 第二七節 郵便315-316
第二章 産業・交通通信 第二七節 郵便 郵便取扱所と業務 明治初年、新政府は、豪農、豪商を選んで出雲街道筋の二部・根雨・板井原に郵便取扱所を置いたが、江尾に出来たのは明治七年(一八七四)一二月である。郵便局の取り扱い事務は、貯金が明治一八年、為替は明治二五年、小包は明治二九年から、電報はすこしおくれて明治四一年、保険制度は大正五年(一九一六)に開始された。 ポスト第一号 郵便ポスト第一号は
第二章 産業・交通通信 第一七節 町道の改良275-280
第二章 産業・交通通信 第一七節 町道の改良 町の投資を道路に集中 町道の改修は、それにつながる国・県道の整備を先行したため、本格的取り組みは昭和四〇年代になってからである。 すでに昭和三〇年代半ばには、国の高率補助もあって、町村投資は産業、生活基盤である道路に集中するが、江府町においても御机はじめ奥地集落の町道改修、また一部の橋の架け替えと、荒田・江尾・貝田・本町五丁目などの道路改修も始まっ
第二章 産業・交通通信 第一四節 中国横断高速自動車道263-266
第二章 産業・交通通信 第一四節 中国横断高速自動車道 写真 佐川インター料金所 基本計画の発表 江府町から山陽に至る高速道路は、観光開発などの人的交流とともに、江府町特産物を京阪神をはじめ、全国の大消費地に早く送ることによる農業近代化促進のため、以前から強く要望されていた。 この道路実現のため、石破二朗鳥取県知事をはじめ、河合弘道米子市長、井上健治江府町長その他による早期実現期成同盟が結
第二章 産業・交通通信 第一〇節 工業生産の推移249-255
第二章 産業・交通通信 第一〇節 工業生産の推移 写真 江美砕石工業ときり割りの山の姿 写真 日野小野田レミコン 工業生産の発展 江府町内の企業は、明治一〇年代、江尾に上之段製鉄工業が操業し、明治四〇年(一九〇七)には御机に坂口本店御机工場が設立され、製糸用木管と下駄歯の生産をしていた(「江府町史」)。 大正期にはたたら産業の終わりで、豊富にあった鉄山林を活用して木炭をつくり、都市部への移
第二章 産業・交通通信 第一二節 運送業259-260
第二章 産業・交通通信 第一二節 運送業 藩政時代は、領国制により自藩の利益を守るため、日野郡でも他領に抜ける主要街道の要地、板井原・多里・粟谷などに常駐の番所をおき、禁じられた物資の抜荷、坂越えなどを取り締まったが、明治維新により、関所・津留めとともに廃止され、人と物資の移動は全国自由となった。 国道一九号線の開通 物資の輸送は、昔から、人や牛馬の背に頼ったが、経済の発展に必要な交通路の
第二章 産業・交通通信 第一九節 林道の開設286-289
第二章 産業・交通通信 第一九節 林道の開設 表21 昭和30年代林道開設・改修 造林と林造 江府町は元来森林資源に恵まれ、戦前から造林と林道林業は盛んであったので、林道の開設改修は早くから進められていた。これを旧村ごとの合計を昭和一三年(一九三八)から昭和二九年に限ってみると次のようになる。 江尾村 四七八一メートル 米沢村 一万五三八八メートル 神奈川村 一万二八二五メートル
第二章 産業・交通通信 第一五節 国道と主要道267-269
第二章 産業・交通通信 第一五節 国道と主要道 藩政期の日野街道 藩政期の日野に通じる道は、日野川筋に張り出した険しい崖と出水を避けながら曲折して、両岸の村々をつなぐ牛馬一頭を通すだけの狭い道にすぎなかった。たとえば、日野川右岸の上り道は、古地図にもあるように、武庫から荒田に至り、豆が原を通って貝原、根雨に抜ける起伏の多いものであった。両岸の村の連絡は、佐川と久連、洲河崎の三か所に渡し舟があり
第二章 産業・交通通信 第一六節 主要地方道270-274
第二章 産業・交通通信 第一六節 主要地方道 岸本・江府線 江尾から袋原・吉原・金屋谷を経由して溝口に至る一般県道金屋谷・江府線は、平成四年(一九九二)に着工されたが、平成五年一一月に路線名が岸本・江府線に変更され、さらに主要地方道に昇格された。 改良と大万橋 小江尾地点の国道一八一号線から、岸本町丸山に至るこの路線は、総延長二〇キロメートルであるが、特に大満から袋原間が交通難所であった。