第五章 明治百年の歩み 第一六節 明治・大正期の社会教育
江府町史
第五章 明治百年の歩み 第一六節 明治・大正期の社会教育 社会教育の芽生え 学校教育の目ざましい普及・発達に対して、社会教育の活動にも注目すべきものがある。 その芽ばえは、夜学の青年攻学会に始まり、実業補習学校、女子の裁縫学校に見出される。 しかし、全国的には明治四四年五月に通俗教育調査委員会(当時社会教育は通俗教育とよばれた)が組織されてから、ようやく社会教育が実行に移されることになったので
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第五章 明治百年の歩み 第一六節 明治・大正期の社会教育
第五章 明治百年の歩み 第一六節 明治・大正期の社会教育 社会教育の芽生え 学校教育の目ざましい普及・発達に対して、社会教育の活動にも注目すべきものがある。 その芽ばえは、夜学の青年攻学会に始まり、実業補習学校、女子の裁縫学校に見出される。 しかし、全国的には明治四四年五月に通俗教育調査委員会(当時社会教育は通俗教育とよばれた)が組織されてから、ようやく社会教育が実行に移されることになったので
第五章 明治百年の歩み 第一一節 昭和期の産業
第五章 明治百年の歩み 第一一節 昭和期の産業 農業恐慌でドン底へ 大正九年に始まった不景気で、米価は一高一低を繰り返しながら下降し、昭和初期には遂にドン底に陥ってしまった。 昭和二、三年の農家経済は、「作況一般ニ芳シカラズ。到ル所ニ小作米ノ減額要求シ…其額八分乃至二割五分ヲ示シタル状況ニシテ」(昭和二年「米沢村事務報告書」)とか、「本村農家ノ生命タル米価著シク下落シ、加フルニ葉煙草賠償金ハ
第五章 明治百年の歩み 第一七節 戦後の社会教育
第五章 明治百年の歩み 第一七節 戦後の社会教育 軍事訓練に代る公民館活動 戦後の社会教育は、学校教育と同様、国家主義的な統制が廃止された。そしてその施設の充実、整備を最大の任務とした。その中で中心的な存在となったのは公民館であるといえよう。 二一年七月、文部次官通牒「公民館設置運営について」は公民館の趣旨や具体的な設置・運営の方法をはじめて明らかにしたものであった。しかし公民館が設置された
第五章 明治百年の歩み 第二節 明治の後期
第五章 明治百年の歩み 第二節 明治の後期 町村の合併 明治二年四月、市町村制が公布された。これには特別に「上諭」が付けられていて「隣保団結ノ旧慣ヲ存重シテ、益之ヲ拡張シ、更ニ法律ヲ以テ都市及町村ノ権義保護スルノ必要ヲ認メ・・・」とある。が、その町村制の施行の直前に、全国的に大規模な町村合併が行われ、町村の数は、従来の五分の一ぐらいに減少した。日野郡では明治一六年頃の一二二村が二九村に統合され
第五章 明治百年の歩み 第四節 大正新時代へ入る苦悩
第五章 明治百年の歩み 第四節 大正新時代へ入る苦悩 普選と更新会 大正期に入りデモクラシーの思想は、普選の要求となり、更に政党政治を助長した。 加藤高明憲政会内閣の手によって、普通選挙法が通過したのは大正一四年三月二日のことであったが、日野郡では、その年の一二月二二日「日野郡更新会」が発足した。更新会とは、更始一新をモットーとし、目的とするのは「自治ノ研究ヲ為シ、人格向上ヲ計ル」もので、民衆
第五章 明治百年の歩み 第九節 明治前期の産業
第五章 明治百年の歩み 第九節 明治前期の産業 用水路の開削と新田開発 江府町の基幹産業は農業で、その中心は米作である。昔から米作には灌漑用水が必要であり、大山山麓などの火山性台地での新田の開発は灌漑用水獲得の戦いでもあった。 近世の江府町における新田開発や、用水路の開削について『日野郡史』は「西成」(宝暦八年、一七五八)、「佐川」(享保一〇年、一七二五)、「袋原」(安永二年、一七七三)で新
第五章 明治百年の歩み 第七節 手島町政の第二期
第五章 明治百年の歩み 第七節 手島町政の第二期 三二年の町長・町議選挙 昭和三二年七月三日、町長・町会議員選挙が行われるが、町長には前回の雪辱を期する佐々木愛次郎と、再選を企図する手島祐町長との一騎打ちがうわさされていた。また、町会議員にとっては、初の大選挙区制で、前回の地区定員は廃止されて全町一区となり、その上二五の議席は二〇に減少されていたのである。 このため、田植えの終わった六月中旬
第五章 明治百年の歩み 第六節 手島町政の第一期
第五章 明治百年の歩み 第六節 手島町政の第一期 町長と議員の選挙 江府町発足に伴う最初の町長・町会議員・教育委員の選挙は、二八年七月五日行われた。 町長選挙には、米沢村から佐々木愛次郎、神奈川村の加藤儀十郎、江尾町の手島祐と、三人の前町村長が揃って立候補して、地区の利益を代表する形勢となった。六月三〇日には岡田朋治元江尾町長も出馬を表明した。 町会議員選挙は、小選挙区制で、三地区に定員があ
第五章 明治百年の歩み 第五節 大きな希望をもって江府町誕生
第五章 明治百年の歩み 第五節 大きな希望をもって江府町誕生 新しい江府町の誕生 昭和二八年当時、県下の町村は一六六で、一町村平均人口は二、八九〇人と、全国一小規模町村が多かった。県は二七年七月、これを三四か町村にする案を勧告したのである。 町村合併のねらいは、いうまでもなく戦前から硬直化を示していた町村財政の窮乏に、一段と拍車をかけたのが戦後インフレであったが、特に自主財源が乏しく、担税力
第五章 明治百年の歩み 第三節 大正期の町村制
第五章 明治百年の歩み 第三節 大正期の町村制 新しい町村制 図表 明治四四年四月、町村制が改正公布され、同時に明治二一年公布の市制・町村制が廃止された。改正の主な点は、町村の法人性と権能負担の範囲を明らかにしたこと、議員の半数改選制を改めて、任期四年で全員改選としたことなどがあり、このほか行政監督・財務規定の整備などがあった。 この改正点の中に町村の区域の確定があったが、大正三年八月四日