附録編 人名五十音索引から裏表紙
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第五章 明治百年の歩み 第一五節 面目を一新した戦後の教育
第五章 明治百年の歩み 第一五節 面目を一新した戦後の教育 教育使節団来日 昭和二〇年八月一五日、戦いは終わった。不安と混迷の中に今までの軍国主義的教育はいっさいの終わりを告げた。連合国軍最高司令部の指令によって、教科書中の軍国主義的、超国家主義的な部分に墨が塗られた。また修身・地理・日本歴史の教科を教えることが停止となり、これに関するものは回収され、焼却された。教育勅語やご真影も各校ごとに県
第六章 江府町の現況 第一節 経済の高度成長と地域格差の是正
第六章 江府町の現況 第一節 経済の高度成長と地域格差の是正 はじめに 高度成長と後進性打破 昭和二五年六月の朝鮮戦争は産業界に特需景気をまきおこし、工業生産額は増加した。この特需景気は昭和二七年まで続いたが、その後は国際収支の改善を目的とした金融引き締めの影響で不況となった。 昭和三〇年になると米の大豊作とスエズ動乱により、景気はにわかに好転した。 更に、昭和三二年からは、日本経済の高
第五章 明治百年の歩み 第一八節 交通と通信
第五章 明治百年の歩み 第一八節 交通と通信 郵便取扱所と陸運会社 写真 明治中期の郵便物集配(郵政百年のあゆみから転写) (根雨郵便局提供) 鳥取県で交通が自由になったのは、峠や湊の番所が廃止された明治二年七月のことである。しかし、制度の上では廃藩置県後の五年四月、県庁に駅逓掛(えきていがかり)がおかれてからであったといえる。そして、その翌五月、駅逓寮の役人が来県し、駅逓掛と共に県内
第五章 明治百年の歩み 第一四節 昭和前期・戦時下の教育
第五章 明治百年の歩み 第一四節 昭和前期・戦時下の教育 給料の一割を寄附 昭和に入ると、昭和二年の世界恐慌につづいて五年前後には深刻な農村恐慌を現出した。 税金の滞納が続き、村当局は徴税に全力をあげる一方、江尾村では小学校建築費の公債の償還期限を延長したり、七年度の償還元金を分納したりした。また役場吏員は六年一月から俸給の一割減、小学校の教師も一月から三月まで一割の寄附を申し出ている。米沢村
第五章 明治百年の歩み 第一二節 明治教育の発足と大正期の自由教育
第五章 明治百年の歩み 第一二節 明治教育の発足と大正期の自由教育 学制頒布と日野郡 明治維新と共に、諸政一新がはかられ、四民平等の世の中となった。欧米の諸国家と肩を並べて、一日も早く近代国家としての面目を整えようとした新政府は、近代国家に必要な国民教育の基礎を打ち立てるべく、明治五年(一八七二)、「学制」を頒布した。「学制」の頒布とは、全国に小学校を設立することを奨励した通達である。 これ
第五章 明治百年の歩み 第一三節 国民教育の確立
第五章 明治百年の歩み 第一三節 国民教育の確立 初等教育の普及 明治一七年といえば、政府の財政緊縮政策が激しい不況をひきおこしてその頂点に達し、農産物価格の下落がはなはだしく、農村は不況のどん底にあった。 政府は農村の経済的救済策を考えたが、地方財政に占める教育費の割合は極めて高く、教育費の節減を目的に明治一八年(一八八五)八月、「教育令」を再改正した。 内容は、地方の実情に応じて、授業
第五章 明治百年の歩み 第一〇節 明治後期の産業
第五章 明治百年の歩み 第一〇節 明治後期の産業 米金井手の開削で台地開発 写真 米金井手開削記功碑(富江地内) 米金井手の水源は俣野川上流・本谷川で、御机部落の字本谷にある。 この用水路は『米原・金沢組合村是』によると「旧米原村大河原・吉原・栃原・大滝・金沢村福兼・富江・溝口村大倉の七部落の新田開発を目的とし、篠田清蔵・大岩八郎が発起人となり、総工費三千円で新開田組合が結成され、井手幅三尺